本小松と新小松 もくじ

本小松と新小松

honkomatsu_shinkomatsu_heddershachou_illust小松石は、約40万年前に、箱根火山が噴火したときに、噴出した溶岩が押し出されて、急速に固まってできた石であり、複輝石安山岩に分類される安山岩の一種です。「小松石」という名前は、真鶴町にある小松山から産出されることに由来しています。

近年は、真鶴町以外で採掘された石にも、赤城小松石、甲州小松石などのように、各地に「○○小松石」の名前がつけられたり、中国産の墓石の中にも、「小松石」に似たものを、「中国小松」という名前で販売されていることもあるようです。これらの小松石と、真鶴町で採掘される小松石とを区別するために、真鶴半島の内陸山側で採れた石を「本小松石」と呼ぶようになりました。また、同じ真鶴でも、真鶴半島側で採掘される石を「新小松石」と言います。

本小松石と新小松石の採石場は、それほど離れていない距離に位置しますが、それぞれから産出される石の質や色調は全く異なっています。

本小松石は、神奈川県の真鶴駅北西側にある小松山の斜面(真鶴町岩地区)で採石される石材です。石質の良さから、香川県の庵治地方で産出される庵治石と並んで、東西の横綱石と呼ばれています。

「新小松」に比べて、より目が細かく、山から切り出されたときは茶褐色ですが、その後、研磨する事によって、淡い灰緑色になります。何十年、何百年と年月を経ることによって、石の表面が美しく風化し、味が出てくる石として、今も昔も大変人気があります。

大きく分けると青色・赤色・灰色の3つにランク付けされており、青が最高級品とされています。

吸水をする石質ですが、古くから、墓石用の石材として多く使われ、鎌倉市内にある源頼朝のお墓や、北条氏一族のお墓、徳川家康のお墓なども本小松石で建立されています。 また、大正天皇・昭和天皇の御陵も「本小松石」で造られており、伝統的に天皇家御用達の石とされています。墓石以外にも、その光沢のある美しさから、庭石や記念碑に使われたり、建築土木、造園用材にも使用されています。小さな石材は、一輪差しや灰皿などのインテリアに加工されているものもあります。現在も、真鶴半島の内陸山側の真鶴町岩地区で、20社余りが採掘しています。真鶴町でしか採れない石であることから、近年ではより希少性が高まっています。

一方、新小松石は、真鶴半島を形成する溶岩でできており、本小松石に比べてややきめが粗いのが特徴です。色は灰色で、本小松石とは違い、青みも含んでいます。本小松石は、墓石に使用されますが、新小松石はお墓用の石材にはほとんど使われません。土木用の石材として京浜を中心に出荷されたり、建築や庭石などにも利用されています。かつて真鶴半島には数多くの丁場があり、新小松石を産出していましたが、現在は採掘を行っていません。

真鶴半島で、石材業が始められるようになったのは、平安末期の保元平治の乱後(1160年頃)とされています。その後、江戸時代になって、小田原城や江戸城の築城や改修工事に、石材が多量に使用されるようになると、石材の産地として、真鶴の名前が歴史的に知られるようになりました。

 

本小松石の丁場

honkomatsu_chouba_hedder本小松石は、神奈川県の真鶴半島周辺に位置する真鶴町で採掘されている石です。香川県の庵治石と並んで、国内の墓石用石材の中でも最高級品という評価をいただいています。本小松石の名前は、真鶴町にそびえ立つ小松山に由来しており、小松山から取れる石材であることから、「本小松石」と呼ばれるようになりました。

戦国時代は、後北条氏が関東一円に広大な領土を有していましたが、その多くの城が、土塁と空堀(水のない堀)で作られていました。その後、徳川幕府の時代となってから、関東の城郭には、石垣が多用されるようになりました。石を採掘する山、採石場のことを「丁場(ちょうば)」と呼びますが、真鶴町が、本小松石の丁場として有名になったのは、ちょうど江戸幕府が始まった頃からです。
edojou_ishigaki_3江戸幕府は、江戸城の石垣を建造するために、紀州、尾張、水戸の徳川御三家や、松平家、黒田家などの日本中の諸大名に石材を供給するように命じました。このような築城のために分担して行った土木工事を、天下普請(てんかぶしん)と呼びますが、その際に、各大名は、真鶴半島から西相模にかけての海岸沿いの各所に石奉行を配置し、御用丁場(採石場)を開きました。そして、各丁場から切り出された石材は、海路によって大量に江戸に送られました。各々の大名が石の供給に尽力する中で、黒田長政は、真鶴町の小松山に、良質な石材である本小松石を発見し、大量の採掘を行って築城に多大な功績を残しました。数ある丁場の中でも、真鶴町は、良質な石が採れたことから、石材積み出しの中心地となり、現在の江戸城の70パーセント以上が本小松石を使用して築城されました。

また、この地域には、幕府が運営した御用丁場のほかに、民営の丁場も多数存在していました。石材業者がそれぞれ丁場を作って競争して採掘したため、1つの村の中に複数の丁場がありました。小松石の産石量が特に多かった村は、片浦の利根川村、土肥の岩村、真鶴の三つの村で、根府川には16丁場、岩村に約10丁場、真鶴に約14、5丁場があったと言われています。

真鶴町は、江戸から近い立地条件と、江戸で大量の石材が必要になったという好条件が重なって、江戸時代に石材業がもっとも繁栄した地域と言えるでしょう。当時は、真鶴町に住む半数以上が石材業に従事するほどのにぎわいを見せていました。その後の幕末期も、石材業で潤っていたおかけで、飢饉や穀物の値段の暴騰にも飢えることなく乗り越えることができました。しかしながら、その反面、採石に携わる人の中には、採石の際に不慮の死を遂げたり、石粉を吸って肺を病み、若くして病死する人もいるなど、労働環境は苛酷だったとも言われています。この「御用丁場」は、幕末が崩壊し、廃藩置県が行われるようになるまで続きました。

yubisashi現在でも、真鶴町の内陸山側で、「本小松石」の採掘が行われていますが、真鶴半島側の丁場は閉鎖され、「新小松石」の採掘は行われていません。本小松石の産出量も減少していることから、本小松石の希少価値は、今後、より高まっていく傾向にあります。

 

本小松石の歴史

honkomatsu_rekishi_hedder2本小松石は、約40万年前に、箱根火山の何回かの噴火により、溶岩が押し出されて、海で急速に固まって形成された石です。神奈川県の南西部、足柄下郡真鶴町にそびえ立つ「小松山」から産出されることから、その名前がつけられました。真鶴で採掘されるようになったのは、平安時代末期に、土屋格衛が岩村(現在の真鶴町)で石材業を創業したのが始まりだとされています。

鎌倉時代になると、本小松石が、日本の歴史に登場するようになりました。1192年に、源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、鎌倉を本拠地とするための寺や城を建造するために、石材が必要となりました。そこで、鎌倉に近い真鶴から石材を切り出して、船で輸送しました。当時はまだ、「本小松石」という名前ではなく、「伊豆石」「相州石」と呼ばれていました。ちなみに、鎌倉でも、鎌倉石という砂岩が採れましたが、非常に柔らかくてもろかったため、建築材として使用するには不向きでした。その点、安山岩である本小松石は、適度に柔らかく加工に適しており、さらに、花崗岩に比べて軽く、大量に運びやすかったことから重用されたのではないかと言われています。

伊豆石(本小松石)は、墓石にも多く使用され、源頼朝のお墓も伊豆石で建立されました。鎌倉市内を散策すると、お寺の敷地内に、その当時に建てられた数多くの五輪塔を見ることができます。室町時代になると、後北条氏の支配下の元、小田原城をはじめ、社寺などの建築が盛んになり、石工の技術も飛躍的に進歩しました。ieyasu_haka_0121shachou_illustそして、本小松石の産地である「真鶴」の地名が、石材の産地として有名になったのは、徳川家康が江戸幕府を開いた頃(1603年)からです。江戸時代の300年もの間、徳川御三家(紀州、尾張、水戸)や、松平家、黒田家などの各大名は、幕府の命によって、良質の石を採石するため、真鶴の各所に丁場(採石場)を開いて、真鶴港から大量の本小松石を江戸に送りました。こうして供給された石材は、江戸城の石垣や徳川家代々のお墓、江戸の町づくりに活用されました。

また、今や観光名所となっている東京のお台場も、本小松石が非常に関係している場所です。幕末に、ペリーが浦賀に来港した際に、恐怖に怯えた江戸幕府が、沿岸を警備するために、品川沖などに台場(幕末に設置された砲台)を建設しました。この時に使用された石材が、真鶴の本小松石です。(現在の「お台場」という呼び方は、幕府に敬意を払って「御台場」と称したことが由来となっているそうです。)

koukyo_ohori_0121近年では、羽田空港や京浜・京葉工業地帯の埋め立て、防波堤工事といった、多くの港湾建造物の工事に、本小松石が使用されるなど、社会に貢献してきた歴史もあります。

さらに、天皇家のお墓や皇居のお堀などにも使われており、宮内庁御用達の石材としてもよく知られています。

 

本小松石が採れる真鶴

honkomatsu_manaduru_hedder真鶴町は、神奈川県の南西部に位置する、自然に恵まれた小さな半島の町です。真鶴半島の岬の形が、地図上で見ると、羽を広げた鶴のように見えるところからその名がつけられたと言われています。manaduru

今から45万年前に、箱根山の噴火で溶岩が噴出し、流れ出た溶岩が真鶴町周辺の地域を覆い尽くしました。この溶岩が冷えて固まり、やがて真鶴町にそびえ立つ小松山の土台になりました。溶岩が固まってできた岩石を安山岩といいますが、小松山の麓で採れる石は、安山岩の一種であり、小松山の地名をとって「本小松石」と名付けられました。

本小松石は、小松石の中でも特に石の模様が 美しく、1つ1つ違う表情を持つすばらしい石です。目が細かく、研磨することによって、小松石独特の灰色から淡灰緑色の緻密な石面が現れ、美しい光沢を発します。石質は硬く、耐熱性と耐火性に優れている上、粘り気が強くて欠けにくいため、墓石に大変適している、最上級の石材として知られています。そして、真鶴町のみでしか採ることのできない石であることから、希少価値が高く、香川県の庵治石、茨城県の稲田石と並んで、日本三大銘石の一つとされています。

yubisashi古くから、上質な石材がたくさん採掘できた真鶴町では、現在も石材業が盛んに行われており、石材業が町の工業出荷額の一定部分を占めており、地域経済を支えています。江戸時代には、江戸城の石垣をはじめ、江戸の各所の修築に真鶴の石材が大量に使われたことから、真鶴の地名は歴史的にも有名になりました。今も、真鶴半島のあちこちには、採石作業が行われた痕跡が当時のままの姿で多く残っています。

江戸時代の頃は、真鶴町では大量の石を採掘できましたし、海岸沿いで採石できたため、江戸や日本各地の港へ容易に運搬できました。しかし現在は、ほとんどの石が採掘されてしまっているため、量産できないことや、外国から、安い石材が大量に入手されるようになったことなどから、石材業は年々衰退しつつもあります。

yoritomo_haka5ところで、真鶴町は、鎌倉幕府の初代征夷大将軍である源頼朝と深い関わりがあります。頼朝は、1180年4月、平氏討伐の命を受けて伊豆で挙兵しますが、相模石橋山の合戦で平家に大敗し、 真鶴半島にある土肥の洞窟で難を逃れました。その後、一行は再起をかけて、同年の8月に、真鶴の岩海岸から再度船で出兵し、それ以後は連戦連勝を果たしたと伝えられています。現在、岩海岸は、源頼朝が船出した浜であることにちなみ、「源頼朝祝出の浜(みなもとのよりとも いわいでのはま)」とも呼ばれています。源頼朝は、1192年に鎌倉幕府を開きましたが、その際に、鎌倉に近い真鶴の小松山から石材を切り出し、寺や城の石垣や楚石に本小松石を使用しました。墓石にもたくさんの本小松石が使われ、源頼朝のお墓も、本小松石を使用して建てられています。

shachou_illust真鶴町では、石材業のほかに、漁業と観光業も盛んに行われています。真鶴半島の周囲は、相模湾の中でも特に魚の種類が多いと言われており、真鶴半島の北側に位置する真鶴港では、豊漁や海上安全など願い、日本三船祭の一つである「貴船まつり」が毎年開催され、江戸時代前期から続くお祭りとして知られています。夏には、海水浴や磯釣り、ダイビングなどのマリンレジャーを楽しむことができ、多くの観光客が訪れる町です。

 

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